(名古屋で食べた味噌田楽の定食☆ヘルシーで美味しかったです)
私の知人のなかに、自分のことは後回しにして、いつも他人のために動いている人が何人かいます。
自分の「お金」や「時間」や「エネルギー」を全部、他人の為につぎ込んで、一生懸命に尽くしたり、助けたり、身代わりになってあげたり、フォローしたり・・・等。
普通ではなかなか出来ないところまで、きめ細かく手助けしてあげて、誰かを助けたら、また次の人を見つけて助ける・・・。そんな感じて、ずっと絶え間なく「誰かのため」に活動しているのですよ~。
昔の私は、そういう人達を見てて、「スゴイナァ~。なかなかあそこまでは出来ないよ。この人は立派な人だなぁ~」とそう感じていました。
そして、そういう人達から声がかかると、なんだか嬉しくなって、私も喜んでお手伝いさせていただきます!みたいな気持ちになり、その人たちのフォローをしていました。
また、私自身、そういう人にならなくてはいけないんだ・・・と純真に信じて、そう思い込んでいました。
だけど、自分が成長するにしたがって、だんだんと違和感を感じるようになったのです。
というのも、人のために自分を犠牲にして頑張っている人たちを観察していたら、その人自身の在り方のなかに「憧れる部分」や「尊敬する部分」が全く無いことに気が付いたのです。
その人たちがやっている行為自体は素晴らしくて模範的なんだけど、その人自身の姿(見た目というより、その人が放つエネルギーのこと)が、とてもみすぼらしく貧相で、暗くて、コンプレックスの塊で、その反面、プライドが高くて、自分のマイナス部分を必死に隠そうとしていて、逆に自分を良く見せようと無理して頑張り過ぎている?そんな感じ…。
そして、そもそも「本当の自分」が全く分かっていない・・・。
そういうところをビンビンと感じるようになったのです。
自分がよく分かっていなくて、自分の気持ちを理解していないし、そもそも「自分」が好きではない・・・という人達のようです。
だから、自分を粗末に扱い、自分を蔑ろにして、自分を犠牲にしたうえで、誰かに尽くして、それで自分の存在価値を確認している・・・。
そういうところがあるのを、感じるようになりました。
その人たちは、一生懸命人に尽くしていて、人が喜んで自分に感謝してくれるのを生きがいにしているようですが、私の目には、頑張っている割には、全然、幸せそうに見えないのです。
無理して苦労している感が漂っていて、腹のなかは不満や怒りが溜まっているように見えました。
自分のことは蔑ろにしている分、頑張れば頑張るほど、どんどん艶が無くなり、オーラがくすみ、エネルギーが消耗して、元気を失っていくのを感じました。
そんな他人のことに必死になっていないで、もっと自分のことを構ってあげないとダメでしょ?・・・と、言いたくなるくらいに・・・です。
でも、その人たちは、自分たちの行動を「すごいね」「素晴らしいね」「立派だね」と周りから賞賛されることが、また生きがいみたいで、そういうことを言ってもらうために、また、人のために頑張ってしまう・・・。そんな感じも受けました。
また、なんだか、そういう人達って、他人と自分の間にある境界線が無くなっちゃっているようにも見えました。
自分を救うことが先決なのに、自分を救うことをしないで、目の前の他人が喜ぶようなことをしてあげて、それで他人が喜んでくれるのを見て、自分が救われたような気になっている・・・。そういうのも感じたのです。
私たちは、本来、「自分をまずは救い、自分をまずは幸せにする」ことが先決・・・なんですよね。
他人を救いたければ、まずは自分を救わなければいけません。
他人の幸せを願うのなら、まずは、自分の幸せのために活動しなくてはいけません。
でも、自分と向き合い、自分の為に行動することから逃げている人は、他人に猛烈に執着して、他人を救ったり、他人を喜ばせることに、自分のエネルギーを使ってしまうのです。
自分を救い、自分を幸せにすることに、罪悪感や嫌悪感があるのかもしれません。
でも、そうした自分に対する罪悪感や嫌悪感を解消することが、また、その人たちの課題でもあるのです。
自分と向き合うより、他人の世話を焼いている方が、実はとっても気楽で簡単だから、だからそっちに走っちゃうのでしょう・・・。
そういうのが段々と見えてきて、今までのように「すごいね~」「立派だね~」と賞賛の声をかけることは、彼らにとって、逆に良くないことなんじゃないか?罪作りなことなんじゃないか?・・・と思うようになりました。
だから、わたしは、もう、その人たちの行動に対して、「すごいね」と評価することは止めました。
評価して褒めたり、賞賛することが、なんだか苦痛になってきたのです。
だって、私は、その人たちの行動を、今は「すごい」とは感じていないのですから・・・。
それなのに、無理して、社交辞令であっても、口先だけで「すごいねー」というのは、なんか違うなーと思ったのです。
すごいね~と言ってあげないことに、最初は罪悪感を感じたこともありましたが、でも、覚悟を決めて、線引きして、私は私の気持ちを大切にすることにしました。
すると、相手はビックリして、「なんで褒めてくれないの?」という反応をしてきたり、自分に関心を持ってくれるようにアピールしてきたり・・・等。自分に気を引こうと、いろいろ仕掛けてくるようになりました。
この時点で、「やっぱりなぁ~」という気持ちになりました。
褒めてほしい。
すごいと認めてほしい。
そういうのがビンビン感じられて、やっぱりなんか違うなーと思いました。
こういう気持ちが根っこにあると、何を言っても、何をしても、変な下心を感じるんですよ~。
計算づくの言葉。
相手の同情や関心を引き出すための雰囲気づくり。
期待に満ち溢れた声掛け。
・・・等。
そういうのも、なんかなー違うんだよなー。・・・と思い、関わることを止めました。
もうね、彼らの期待に応えてあげて、期待通りの反応をしてあげることが、もう無理!になったのです。
「相手の期待通りの反応をしてあげる。」←これって、実は、相手からエネルギーを抜き取られているのと同じことなんですよ~。
相手に、自分のエネルギーを供出してあげているのですよ。
だから、ものすごく疲れて、虚しい気持ちになるんです・・・汗。
ちょっとくらいいいでしょ?・・・と言われても、こうした小さな積み重ねも、たまると大変なことになります。
「自分に正直に生きる」と決めたのですから、私は、無駄な褒め殺し?とか、オベンチャラは、もうしないことにしました。
これでスッキリです。
もちろん、会えば、普通に必要最低限の話はしても、「全然すごくない」と感じたなら、そのまんまの反応をするだけです。
それで、どうしたの?と追求されたら、正直に自分が感じていることを伝えるまでのこと。
私が心から「すごい!」と感じたことにのみ、「スゴイ!」と賞賛すればいいだけのことです。
とっても単純明快。クリアですよ(笑)。
だから、私はこのまま、堂々としていようと思っています。
小さな嘘を積み重ねていると、本当の気持ちが分からなくなる。←これって、今、私がお伝えしたことも同様なのです。
自分の心に正直になってください。
本物の人は、正直な反応だけを求めています。
人物の格が上がるほど、上辺だけの賞賛を嫌がり、本音や正直な意見を強く求めてきます。
嘘の言葉や適当な褒め殺しでも、すごく満足して喜んでいるような人は、まだまだ人物としての程度は低い・・・ということです。
そして、誰が相手でも、正直に自分の気持ちを表現できること・・・。それも大切なことだと思います。
嘘やオベンチャラは本当に疲れます・・・(-_-;)。
そういう世界で生きていると、自分がどんどんみすぼらしくなって、貧相になり、くすんで汚れていくので、早く脱することですよ~。
ただし、本当の気持ちを生きる・自分に正直になる・・・ということは、相当の覚悟がいりますよ。
中途半端な気持ちでは、絶対にできません。
そこはしっかり腹をくくって、覚悟をもってくださいね。
その上で、正直に生きる道を歩んでほしいと思います。